昭和44年04月18日 朝の御理解



 御理解 第11節
 「神は天地の守りじゃから、離れることはできぬぞ。」

 「神は天地の守りじゃから、離れる事は出来ぬぞ」と。天地を支配して下さる神様、天地の働きを、働きたらしめて下さる神様。天地そのものが神だと言った様な風に、私共は感じておりましたし、またなるほど、御理解12節には、「神に会おうと思えば庭の口を外へ出てみよ、空が神、下が神。」とこうおっしゃっておられますから、天地そのものが、神様と云う様な見方をしてたんですけれど、そうではなくてね。
 天地の守りをして御座る方が神様なんだ。天地を言うなら動かして御座る神様、ですから成程。「庭の口を外へ出てみよ。空が神下が神。」とこうおっしゃる。上にも下にも、言わば空にも下にも、その神様の働きが充満しておると、そこんところを「神に会おうと思えば庭の口を外へ出てみよ。空が神下が神。」と言う風に教えておられるとこう思うんですね。「神は天地の守りじゃから、離れる事は出来ぬぞ。」と。
 昨夜の御祈念に久富勇さん、こうして朝晩お参りになりますが、先日ここにお参りをして来よって、常持の所で常持の方をちょっとこう、跳ねられた。それがまあ思いがけない軽症ですんで、おかげを頂いておられますが、まあ朝晩お参りをされる時に、そこの常持の病院ですから寄られるそうですが、また日におかげを受けておられると云う事ですが、その方のお届けをなさいます。
 どうぞ一日も早う、治って貰う様にと言う訳なんでしょうけど、それがですね、一日も早う治って貰うと云う事が、自分の利害関係に係わるから早く良くなって貰わなければというのであってはならない様ですね。昨日お届けさして貰いよりましたら、その方は「福島としお」さんていうんですね。そしたら久富としお、福島勇て名前とこう一緒に混じってこれ頂くんです。福島勇さん、または久富としおさんと。まあそう云う事から考えさして頂きましても、是は自分であって自分ではない。
 あの人であって、あの人ではないとこう云う事になる。ですから是は言うなら世間に他人というものはないと仰る、だから結局その自分の事としての願いでね、この人に早う良うなって貰わなきゃ病院代が嵩むから、早う良うなって貰わにゃんと言った様なもんじゃない。自分がもし病院に入院して不自由しておるなら、自分自身が御用が出来ない、自分自身が働きが出来ない。ですから自分の事として願うでしょう、あの人の難儀を願うより自分の難儀としてそれを願う。
 とまあ云う様な事だと私は思いました。私がならその事を願ってあげると言う様な事ではなくて、矢張り自分の事として願わして貰えると言う事が本当の事だと思いますね。そこに難儀な問題というか、様々な苦労をしておられる人が、あの人気の毒だからあの人の事を願ってあげようと。と云う事も有り難いけれども、その難儀な、その難儀をね、自分の事としてそれを感じる時にそこに、何て言うですかね、本当の通うというか実感的なものが出て来る訳です。
 大体天地の親神様とこう申しますが、天地と天地を支えて御座る神様というのはそういう中にあるんです。天地と天地を支えて御座る神様というのは。そこで例えば水一杯頂きましてもね、その水そのものに感謝をするのでなくてですねその水を水たらしめて御座る神様にお礼を申し上げる。例えば一切の物に合掌せよ一切の物を拝めとバスに乗って来たしたらそのバスを拝むというのがそのバスを通して神様を拝むのである。
 バスそのものが神様ではない、そのバスをバスたらして御座る働き。その大本ですかね働きをして下さる其処ん所を私共は神様というのである。「神は天地の守りじゃから、離れる事は出来ぬぞ」と、もう絶対不離のもの離れなさる事のできない関係にある。そこで私達がね、そのお道の信心によっておかげを受けると云う事はです絶対不離のもの、私共と神様と。所謂自分一代と言った様なもんではなくておかげを頂く時だけと言った様なものではなくて、神様と私達が絶対、不離なものであるという信心。
 自分の思う様になったらおかげ、思う様に成らなかったらおかげじゃない。その思う様にならなかった、頼んでも聞いて下さらん、ならまた他の、神様やら他の仏様やらに頼もうと言った様なものではなくて、どの様な場合でも、絶対不離と言うところが、まあ打ち出されていかなきゃならん。と同時にです、天地を支えて御座る、天地を守って御座る、天地の働きを、働きたらしめて御座る、その神様を私共は神様と言い、親神様とこう言うて居る訳ですが。
 そういう例えば、大本なる神とでも申しましょうか、そういう神様に、天地を支えて御座るのであるから、天地の中にある全てのもの、事柄ですかね、天地に、まあ生きとし生けるものというだけではなくて、生きておらなくても死んでおっても、この神様のご支配を受けなければならないと云う事、ですから、是は人間だけじゃないけれども、私共がそこんところをですね、その神様のそういう支えを、頂いておらなければ生きて行かれないと云う事を分からして貰い。
 神様の言わばおかげを頂かなければ立ち行かんという、思い込みが愈々強うなからなければその神様との本当の交流は出来ない。神様に支えられておると神様に支えられておると云う事をです愈々実感し愈々そこを分からして貰う。神様なしには神様のおかげから、離れる訳にはいけんのだと言う所から信心が進められて行かなければならん。そこに矢張り障子一重がままならぬ人の身の自覚というですかね。
 この神様のおかげを頂かなければ、所謂ここ一寸が動かれんのだと。そこで厳密に言うと、私共ここ一寸を例えば動く場合であっても、動いても良いであろうかという神様へのお伺いというか、願いというものがなされる様な、信心が必要と云う事になって来る。私共が知る知らざるを問わずに神様は御守護下さってある。天地を守護して下さってあるのだから、その中には私共も守護しておって下さる。
 そのお守り下さってある中にありながら、それを自分勝手な考え方で動いたりする所から破綻が生ずる、そこで教祖様が言われる、実意丁寧神信心と云う事がいかに大事な事かと云う事が分かって来る所謂教祖様の生きられ方、教祖様のご生活のご態度と云う物がです、いかに私共に必要であるか又それが人間の幸せを形成する上においてです、一番大事であるかと云う事が分かる。
 そこで神様の願いを願いとしてとか、神様の心を心としてと言う様な生き方が教えられる訳であります。まあ例えてここで申しますなら、まあ私がまあ中心である。それでここでなら御用を頂いておる人達。例えばなら私が光昭君に用があるとする。所が光昭君、光昭君と呼んでもどこにもおらん。裏に行っとるじゃろうと、見に行って下さいと言うて、まあ人に見に行って貰ってもそこにはいない。
 そこから私は交流しておったものが切れたり、又はさっき申します、破綻が生じるとそこから、例えば僕はちょっと、今から久留米にやらして頂きますからと一応断りをおいて、久留米に行っておれば誰も探しもしない、だけではない久留米に行っておるその事も、祈っておる筈である、お願いがしてある筈。そこを黙ってなら例えば、久留米行くとするとするとです、それでも神様は御守護下さってある、お守りして下さってあるからいい様なもんだけれどもです。
 そういう時に狂いがくる、破綻がある。そこで自分がね、万事万端の上にお繰り合わせを頂くためには、万事万端の上にお取次を頂いて、御神意をお伺いして、私共の動きそのもの全体を神様が知っておって下さる、お届けをすると云う事はそう云う事だと思う、よく善導寺の原さんなんか、ボタンひとつ買いに行かれるでも、今日は久留米の方にボタンを買いに行きますからと。
 今日はあちらに集金に行きますからと、朝のお参りの時にお届けがあります。ほんで私が、ああ今頃は原さんが久留米に行っておられるんだと。と例えばそのことを例えば願う。まあ是は私と皆さんという間柄をもって分かり安く説明をするとそう云う事になる。それが私共と神様という場合でも同じ事だと云う事を今日は聞いて頂いた。守りをして下さっておるその守りのね。
 御守護下さっておる、その神様の、いわゆる、ご承知の圏内とでも申しましょうか。そこに絶えず願いとか、お詫びとか礼とかと言う事になって来るのです。願っておる時詫びておる時、お礼を申し上げておる時、神様に通うておるのです。あいよかけよと。お道の信心で言われます、只、あいよかけよと云う事はです、どの様に親のことは子が願い子の事は親が願いとこう。先程勇さんの事聞いて頂いた様に、親の事を願う時に只、それを親の事を願うというのじゃなく、自分の事として願うのである。
 親が子の幸せを願う時に、子の幸せを願うと云う事は自分の事として願う、自分の事として願う。あいよかけよとか願い合いと云う事にはです、そう云う物が必要だと云う事になる、神様の願いに応えると、神様の願いが成就する事の為に奉仕すると、それが例えば自分の事として、神様の願いが成就して行く事が嬉しいと云う事。神様の願いが成就して行く事が有難いと云う事は自分の願いが成就してくると同じだと。
 そこに神様の願いをまた、氏子が立ち行く事が神の立ち行きであり、氏子の喜びがそのまま神の喜びであると言う様な事になって来る訳ですね。「神は天地の守じゃから、離れる事は出来ぬぞ」と。どんなに不信心者であっても私共が忘れておっても、神様のお守りから離れる事も出来ないし、又御守護を受けなければ立ち行かないのであると、いう思い込みの中から、おかげが受けていかれる信心。
 それをそれと分からして貰うてです、神様なしには神様のお働きなしには、自分は立ち行かんのだという思い込む所からお任せするという信心が生まれて来る。任せられるから神様は、是は人間でも同じである様に任せられるから、その事に対する思いというか働きというのは、まあ是だけ自分に任せられておるから、その人の為に矢張り働いてやらなければ居られない様なものが、生まれて来る様な道理である。皆さんに1人1人私は伺ってみたいと思う事がある。
 御大祭が20日になった、ここで20年近く椛目合楽を通して4月、10月の16日がご大祭日と定められて、神ながらなおかげを頂いてきた。一度だってご大祭にお湿りがあったと云う事が無いと言う程におかげを受けて来た。ところがここのご大祭が20日と神定められたとたん、どうですか15、16のあの15といやあ御用日である16といやあ御大祭日である。
 その御大祭日が今年から狂うてしもうたでしょうが、いわゆる16日なんかもう朝から晩までもう降り通しに降りましたでしょうが。その事を皆さんどう思うておられるであろう。もう1人1人に私は合楽の信奉者の1人1人にそれを問うて見たい。はあ唯おかげ頂いたと、ふがよかったと。
 今まで例えば20年近くもお湿りを知らなかった16という日にです、しかも前の晩の15日から16日に掛けての例えばあのお湿りがです、只事ではない只事ではない、どう言う所から天地が言わば狂うて来たというか、まあ言うならば天地の働きがですね、天地を支配して御座る神様がどういう考えでそう云う事になられたかと。此処の所をひとつよう分からにゃいかんと。
 其処ん所がよう分からせて頂く所からです、私共が生きた神を信心しておるという、事実。又は心強さと、そういう神様のお守りを受けておる、しかも金光大神のお取次によってその神様の働きを頂いておると云う事をです、どの様な答えをもってそれに応えたり感じたりしておるか。そこでならめいめいの上に、おかげを受けなければならない、そのおかげのその事がです。
 大きな意味での、天地の支配はなさるけれども、小さい小天地である、人間氏子の事なんかはもういい加減と、言った様な事じゃないと云う事をです、人間社会の上にもその神様の綿密なる働きと言うものが頂け、どの様に例えば計算尽くで出来ておる様な事であっても、一度神様の心が変わればです、その計算を全部し直して別な答えを出しておられると言うところ。もう只事じゃない大変な事ですよね、実を言うたら。
 そういう大変な働きの中に私共がおかげを頂いて、しかも合楽の信奉者はそういう働きにつながりをもっておると云う事にね、ひとつ目を開かなきゃいけんと思うです。昨日もある方が朝の御祈念の時にお届けされるんです。親戚の方達は信心がないのですよね、それに親戚の方達が集まられてから、もう信心しよったっちゃ難儀ばっかりしておる。言うなら難儀の連続である。信心しよったっちゃあんた同じ事じゃんのと、言われた時代もずっと続いて来たけれども、最近色々なおかげが現れて来たと。
 そしたら親戚の方達が言われる事。やっぱあんたどんが合楽合楽って言う筈ばいっち、もう1にも2にも親先生にお伺いをしてから親先生任せになってさえおけばと言うが、初めてその事が分かって来たと言うて、親戚の方達が言われたっちゅう。昨日は「此の方の道は傘一本で開かれる道」と云う事でしたね、そういう御理解を頂く頂かんは分からんなりにです、昨日は私に特別にこう折り畳式の傘が大きいのが。
 私は体が大きかけん普通とんじゃいかん、大きいのが在ったからというて、昨日、傘のお供えをその方しております。ありゃ、この傘一本でこりゃ開けるばいとこう言う事ですよね。傘一本で開ける道。その開ける道というその開き掛って来たらもう、なら親戚の方達がやっぱりあんた達が合楽合楽と言う、もう二言目には親先生にお伺いしてからと言うが、そう云う事の意味が段々私共にも分かって来たと言うのである。
 その方はもう初めから信心しておりますから。言うなら20年の合楽の信心を頂いておるけれども、20年間という間はです、あんたどんが金光様金光様っちゅうばってんと、言う様な見方をされて来た人達がです、そういう例えば開き掛って来たら、是が開けてしもうたらいよいよ、私は有難い事になって来る。けどその20年間はどう云う事に20年間も掛って来たかと言うと、今まで神様の御守護を受けてきておる。
 お守りを受けて来ておる。けれどもそれをそれとも気付かずに言うなら自分勝手な生き方をして来るところに、おかげと云う物がもう散漫になってしまっている、そして例えばなら今度の15日16日のお湿りの事から皆さんが思うて見てですたい、間違いがない。だんだん是は例えば、なら私とても何時どう言う風に間違いがあるやら、どこにお粗末御無礼ができて行きよるやら分からんのですから。どこから狂いが生じて来るか分からんけれども、そこん所を何時も見極めておる。
 はっ是はおかしいぞと、是は間違って行きよるぞと。そしたらそこにすぐ、又後戻りをする所は後戻りをさして貰い、詫びる所を詫びさして貰い、改まる所は改まらして貰うて、間違いない道を進まして頂こうとこう進めておる、ですから其処ん所でですね、信心が例えば中断したりですね、そういう思い方が濃ゆくなったり薄くなったりでは本当のおかげに成って来ないって。
 天地が自由になると、又自由になって下さると、その天地を自由にして下さるその神様を私共が拝んでおるとじゃん、その為には、その神様のお心に適う信心が、いかに必要であるかと。又そう成らなければいけないのかと、その天地とその天地を支配して御座る、いわゆる、天地をつんばって御座る神様、それを私共は、神様と言うておる、いわゆる絶対不離のものである。天地とその天地を御守護下さっておる。
 ご支配下さっておる神様とは不離のものである様に、なら私とその神様とが不離なもので無からなければ成らないという、離れておっては成らないと云う事、ひと時でも。天地を守護しなさるのじゃから天地の中にある私共の御守護も受けておると。だから御守護を受けておる事を受けておるとして、いわゆる神恩報謝の生活が成されなければ成らない、神恩報謝の生活と云う事を又細かに砕いて言うと。
 いよいよ天地の心を心としての信心、しかもそれが実意丁寧に間違いなく、おかげを頂いて行くと言う所にです、ね、金光様の信心の言わば、有難さ素晴らしさをそこに感じるのです。そこには神様と人とが一体、信心、言わば、共栄と云う事を言われるが、共に栄えて行く事と同時にです、または共に苦しんで行くと、氏子の苦しみは、神の苦しみとおっしゃる様に、そういう関係で信心が続けられて行く。そこで久富勇さんの、それじゃないですけれどもです、福島勇であり、久富としゆきさんか。
 久富俊之さん赤の他人みたいじゃったけれども。そこに事故と云う事によって縁が出来た。その縁が只自分が跳ねて怪我をさしたから早う良うなって貰わにゃ自分がうんと薬代も払ちゃらなんけんと、言う様な事で早く良く成ります様にと言う様な事じゃいけんて。自分の事として願え自分の事として願うとそこに金光様の信心がはっきり浮き彫りされて来るでしょうが。今日の事は、まあ大変もう難しい事だと思うんですよ。
 私どん天地ば神様と今まで思うとった。所がそうじゃない天地を支えて御座る神様なんだ、天地金乃神というのはだから水一杯そのものというのが、天地の恵みと云う事はですその水そのものではなくて、その水を水たらしめて御座る水を通して拝む神様なんだ、私共が拝む神様は。その様な事をです。例えばこの御理解11節では簡単に表現しておられますけれども、「神は天地の守じゃから、離れる事は出来ぬぞ」と。
 そんなら私共からでも神様が離れなさる事は出来ないのだと。成程神様は離れはしなさらんけれどもです、こちらの心が離れておる、神様は離れとらん、こちらの方が離れておる。神からは綱は切らんけれども、氏子の方から切るなと仰る様に、神の方からは切りなさらんけれどもこっちの方から切っておる。それを私は今日我がまま勝手な生活と言う風に申しました。だから我がままな生き方生活の中からです。
 いわゆる実意丁寧神信心、言わば教祖の神様の生きられ方と言った様な物がです、私共の生活の中に、本当にこう取り入れられてこそ初めて、金光様のご信者ぶりと云う物が発揮される。勿論そこから金光教ふうのですかね、天地の働きを自分の一心の上に、自分の一家の上に現して行って居られる。現してしかも自分の周囲の人達も、成程あなた達が合楽合楽と言う筈だと言う様なおかげを頂かして貰う訳になるのですよね。
   どうぞ。